京都市の最高気温、2016年(平成28年)5月23日は33.1℃で、前日の5月22日は30.5℃を記録しました。
5月とは思えぬ暑い真夏日が続いています。そんな5月22日の話。
山登りからの帰り、紫色にライトアップされる京都タワーを撮影するため、観光地としての嵐山に寄り道を。
あいにくの酷い霞み空で、京都タワーの後方にそびえる醍醐山地の稜線すら曖昧な見え方でしたが、大気が汚れていた影響か、山の向こうから昇る紅の月を、大堰川や京都タワーと合わせて眺望できました。
ご存じの方も多いでしょうが、大堰川の呼称は複雑で、現行の河川法では全流域を桂川と扱いますが、流域によっては保津川や大堰川と呼ばれたり、古くは大井川の表記も見られます。
嵐山渡月橋から赤い満月と「夜明けの紫色」の京都タワーを望む。
お月さまの下には千頭岳の南尾根が連なりますが、上の写真では分かりにくいでしょう。
京都タワーの塔体が紫色に照らされているのは「リレー・フォー・ライフ・ジャパン・京都」 のがん征圧活動に賛同したものです。
公式には「ドーン・パープル」カラー(夜明けの紫色)とされます。
この特別なライトアップは、2016年(平成28年)5月21日と22日の両日に行われました。
5月21日の夜も別の山の上から撮影しましたが、ヤブカに刺された以外は特筆すべきこともありません。
今回の記事では5月22日の話を。
5月22日の「月の出」直前まで時間を遡ります。
正しく、「渡月橋の上」から京都タワーを撮影。
大堰川(桂川)に架かる渡月橋の上から紫色の京都タワーと音羽山を遠望する。
| 主な山、建築物 | 距離 | 標高 (地上高) | 山頂所在地 | 備考 |
|---|---|---|---|---|
| 音羽山 | 16.5km | 593.0m | 京都市山科区 (滋賀県大津市) | |
| 西千頭岳 (千頭岳三角点峰) | 17.6km | 601.7m | 京都市伏見区 | 醍醐山地最高峰 |
| 京都タワー | 8.0km | (131m) | 京都市下京区 |
上の写真は渡月橋の北東端から撮影していますが、日没後とはいえ観光客の方もいらっしゃり、のん気に写真を撮影していたら通行の妨げとなることは明らかです。
よって、今回の写真で厳密に「渡月橋の上」から撮影した写真は上の1枚のみです。
上の写真では月の姿が見えませんが、この後に月が姿を現します。
渡月橋(とげつきょう)の北東端、「史蹟 及 名勝 嵐山」碑。
古くは「法輪寺橋」や、あるいは「法輪橋」と呼ばれており、当初はやや上流に架かっていたらしい。
かつては「嵐山虚空蔵」法輪寺さんへ至る道のりとしての性質が強かったのでしょう。
上の写真では右が渡月橋の上です。
先ほどの写真1枚のみ、そちら、橋の上から撮影しました。
他の写真は左の河川敷側(三条通側)で撮影しています。
京都タワーと大堰川を望むだけであれば、渡月橋の上に固執する必要はありません。
大堰川(桂川)の河川敷から渡月橋と嵐山城跡の山を望む。
古い写真でもよく見かける、お馴染みの構図ですね。
渡月橋の右奥に見えているのが「山としての」嵐山で、いわゆる嵐山城跡の山です。
この写真の撮影地点から京都タワーと赤いお月さまを撮影しましたが、話を分かりやすくするため、便宜上、残りの写真も「渡月橋から撮影した」(渡月橋の付近から撮影した)と述べておきます。
渡月橋の南(大堰川の右岸)が京都市西京区嵐山にあたり、山としての嵐山(嵐山城跡の山)もそちら側です。
小倉山や亀山公園(嵐山公園 亀山地区)が所在する、渡月橋の北(大堰川の左岸)は京都市右京区嵯峨で、住所の上では嵐山ではなく嵯峨ですが、観光地としては右京区側も嵐山と扱う例が珍しくないでしょう。
たとえば、嵐山–高雄パークウエイ(嵐山・高雄パークウェイ)や、いわゆる「嵐電」(京福電鉄嵐山線)は西京区嵐山を通りませんが、嵐山を冠しています。
両岸を総称して「嵯峨嵐山」と呼びますが、たとえば、江戸時代の日記にも「嵯峨嵐山へ花見に行った」といった記録が残りますので、これは現代に限った話ではありません。
落葉埋橋といへる事をよめる
修理大夫顯季
をくらやまみねのあらしの吹からにたにのかけはしもみちしにけり『金葉和歌集』
平安時代後期の歌人、藤原顕季が詠んだ「小倉山峯の嵐の吹くからに谷のかけはし紅葉しにけり」の歌が、『金葉和歌集』(金葉集)巻第三・秋に収載されます。
小倉山や嵐山から吹き下ろす風で舞い散る紅葉が、大堰川を埋め尽くして架け橋となる光景が浮かびます。
詞書に「落葉が橋を埋(うづ)むといへる事を詠める」とありますので、渡月橋の前身にあたる橋も落ち葉が埋めるイメージでしょうか。
この歌は私家集『六条修理大夫集』(顕季集)では第三句を「吹くままに」とする異同があり、平安時代後期~末期の藤原清輔による歌学書『和歌一字抄』では、詞書を「落葉水紅」として、下の句を「戸無瀬の滝ぞ紅葉しにける」とする異同歌も収載します。
いわゆる「戸無瀬の滝」を紅葉が染める要因は「落葉埋橋」の歌と同じですので、成立した経緯は分かりかねますが、独立した別の歌ではなく、異同歌と見なせるでしょう。
中秋の名月が昇る夜(十五夜)、高倉天皇の命を受けて小督局を探しに嵯峨を訪れた源仲国が、亀山のあたりで聞こえる琴の音を頼りにたどり着く「小督と仲国」の話が『平家物語』で語られます。
『平家物語』の「小督」に「(前略)まことや法輪はほとちかけれは月の光にさそはれて参り給へる事もやとそなたはむひてそ歩ませける亀山のあたりちかく松の一村有(ある)方に幽(かすか)に琴そ聞えける峯の嵐か松風か尋ぬる人の琴の音か(後略)」とありますが、「法輪はほど近ければ」「月の光に誘われて」「亀山のあたり」「峯の嵐」といった語句が見えますね(『平家物語』は語り本系の古活字版から下村本を翻刻した)。
「法輪はほど近ければ」の「法輪」は、法輪寺のみならず、この当時、法輪寺橋や法輪橋と呼ばれていた渡月橋の前身にあたる橋をも指すと解釈すれば、「法輪はほど近ければ、月の光に誘われて」の描写は、後の渡月橋に繋がるとも考えられるでしょう。
このエピソードや、それを題材とした能の演目「小督」が、かつて、渡月橋の艮隅(北東隅)に所在した小さな橋「琴聞橋」の由来で、現在は「琴きき橋跡」碑が建っています。
先行した顕季の歌は「峯の嵐」の結果を視覚的にとらえていますが、『平家物語』は「峯の嵐」を聴覚的にとらえているのが興味深く。
嵐山渡月橋からドーン・パープルの京都タワー越しに月の出を望む。RFLJ京都。
空が霞んでいた影響もあり、山のキワに覗くお月さまの色が赤く。
夏至が近付くほど満月(望)の南中高度が低くなる関係で、太陽高度が高い季節は赤い満月と感じる時間がやや長くなります。
条件が揃いやすい時期の赤い満月はとくに珍しい現象ではありませんが、大きな満月とカラフルな紫色の京都タワーの組み合わせ、構図となりました。
そういえば、渡月橋の周辺からは、いわゆる初日の出も望めますね。
初名とされる法輪寺橋をはじめとして、渡月橋は御幸橋(御幸の橋)や大橋などの異名が伝わります。
「渡月橋の由来」や「渡月橋の成立時期」をどこに見出すかは難しいところですが、鎌倉時代中期の亀山院(亀山上皇)が「くまなき月の渡るに似たり」とおっしゃった、あるいは歌を詠まれた云々といった伝説は、後世に生じた俗説にすぎないでしょう。
曇りがない満月を表す「くまなき月」は、漢字で書くと「隈無き月」(かげる部分がない月)であって、「雲無き月」や「熊鳴き月」ではありません。
(どの土地で詠まれたか分かりませんが、)たとえば、西行の『山家集』に「月前に遠く望むといふことを」を詞書として「くまもなき月の光にさそはれて幾雲井までゆく心ぞも」の秋歌が収載されます。
遠くの月を望んでいるうちに、見る主体である自分の心まで遠くの果てに飛んで行ってしまう心情がよく伝わり、月にも執着した西行ならではの歌でしょう。
亀山院の俗伝については、現代の人が創作したわけではなく、1896年(明治29年)の『都のいぬゐ』に「傳云、龜山院の御時、晴朗の夜、月の渡るに似たりとて、名づけ給ひしと、」と見えますので、遅くとも明治時代には知られていたようです。
しかしながら、「傳云」(言い伝えによると)と濁していますので、典拠を示せない俗伝であることは明らかでしょう。
ですので、現状では断定調を避け、「~ともいわれている」といった伝聞調に留めておくのが無難です。
もし、御製が由来であれば、それがどの集からも漏れるとは考えにくく、仰せ言であれば、それを誰が記録したのでしょうか。
私は俗説や俗伝をとくに否定しませんし、それどころか、俗説は俗説と明示したうえで、よく記事でも取り上げていますが、それを確実な歴史的事実と断定し、後世に謬伝として残す行為は賛同しません。
嵯峨周辺の名勝誌『都のいぬゐ』の題は、喜撰法師が詠んだ「わが庵は都のたつみ~」の歌を前提として、衣笠内府が詠んだ「はるかなる都のいぬゐ~」の歌や、あるいは寂連法師が詠んだ「我庵は都の戌亥住詫びぬ浮世のさがと思ひなせども」の歌を踏まえたものでしょうが、緒言(序文)に「其位置區域は平安亰の西北に當るを以て題して都のいぬゐといふ」とあります。
亀山院は多作の歌人として知られており、もちろん、嵯峨野や亀山殿周辺を題材とした歌も数多く残しています。
たとえば、「橋上霞」を題とした「おほゐ川すゑなるはしはなか絕えて霞そわたる春のかよひ路」(大井川末なる橋は中絶えて霞ぞ渡る春の通ひ路)という、月が渡る橋ではなく、霞が渡る橋を詠んだ歌があり、個人的に秀歌だと感じています。
これは題詠ですが、「大井川の川下の橋は、霞に中ほどを隠されて途切れたように見える。その橋を霞が渡ってゆく、春の通い路なのであろう。」といったイメージは実景としても想像しやすいでしょう。
霞が橋を隠している光景を、旅人のように見立てた霞が橋を渡っている(から橋が見えにくいのだ)として、春の訪れや橋を「春の通い路」と詠んだわけですね。
人々題をさくりて歌つかうまつりしついてに月前眺望といへる心をよませたまうける
太上天皇
嵐山空なる月は影さえて河瀨の霧そうきて流るる『続拾位和歌集』
また、「嵐山空なる月は影さえて河瀬の霧ぞ浮きて流るる」の歌が、『続拾位和歌集』(続拾位集)巻第五・秋下に収載されます。
「人々題を探りて歌仕うまつりし~」の詞書はいわゆる探題で、歌会で「月前眺望」の歌題を探り取った(あらかじめ用意された題を歌会の参加者が抽選的に引いた)亀山院の御製です。
「嵐山の空にかかる月は、その光が澄み冴えている。川の瀬には霧が浮かび、それが流れに沿って漂い流れてゆく。」といった歌で、「月は」「霧ぞ」と景物を対置して、とても素直に詠んでいます。
嵐山の月を見上げ、その月光の下に視線を下ろし、大井川の河瀬を流れる霧を見る……、空高く静止して冴える月と、河面近くを浮遊しながら流れる霧で、静と動の対比を意識的に配置しているあたりが、やはり巧いつくりだと感じます。
いずれにせよ、鎌倉時代以前の歌や詩文に「渡月橋」の呼称は見えません。
史料上、確実に遡れる五山文学(室町時代頃の禅僧による漢文学)の時代は「度月橋(とげつきょう)」の表記であり、「渡(わた)る」ではなく「度(わた)る」と解釈できるでしょう。
それが、いつの頃からか、川を渡る橋らしく「渡月橋」に転じたようです。
室町時代中期の禅僧・漢詩人、萬里(万里集九)(還俗して漆桶万里)による漢詩文集『梅花無盡藏』(梅花無尽蔵)七巻本に、嵯峨や大井河の「度月橋」が見え、古くは『梅花無盡藏』が「度月橋」(渡月橋)の初出とも見なされていましたが、『天龍紀年考略』貞和二年丙戌賦龜山十境(亀山十境)に「度月橋」が、あるいは『夢窓國師語錄』(夢窓国師語録)五山版の偈頌「天龍寺十境」に「度月橋」があり、編纂年代に誤りがなければこちらが先でしょう。
天龍寺を開山した夢窓疎石の作として、平易な仮名交り文で記された『夢中問答集』(夢中問答)が世間ではよく知られており、(意外に思われるでしょうが、)『夢窓國師語錄』は見落とされがちでした。
これらの描写にしたがえば、貞和2年(1346年)に夢窓疎石が「亀山十境」の詩を賦し、それを「天龍寺十境」と選定したのが始まりとなります。
『天龍紀年考略』が収める「亀山十境」に「又所謂 度驢度馬未爲足。玉兎三更推轂過 者度月橋也。」(驢(ろ)を度し、馬(むま)を度して、未(いま)だ足れりと為さず。玉兎(ぎよくと)、三更(さんかう)に轂(こく)を推(お)して過ぐる。)とあります。
『日本書紀』推古天皇7年(599年)に見える「百濟貢駱駝一匹。驢一匹。羊二頭。白雉一隻。」の「驢」はおそらくロバを指しており、日本ではきわめて珍しい動物でしたが、長い耳から「うさぎうま」と呼ばれていました。
平安時代後期の歌人、源仲正(仲政)が詠んだ「山櫻きほひたつぬる人かすに身をうさきまのうなかしそゆく」(山ざくら競ひたづぬる人数に身を兎馬のうながしぞ行く)の歌が、『源仲正集』(仲正家集)春部に「山櫻」を詞書として、あるいは『夫木和歌抄』(夫木集)巻第四・春四の「花」で「家集」を詞書として収載されます。
「家集」の伝達経緯は私にもよく分からない点があり、写本が残る家集は後世の再編とされ、仲正の本来の家集『蓬屋集』は散逸したとも。
山桜の歌には卑下めいた歌意もあると見て、これは私的な意訳となりますが、「山桜を競って訪ねる風流な人々の、その数のうちに私も加わろうと、兎馬よろしく我が身をせき立てて出かけてゆく。」と読むと、「人数」なのに私は兎馬(ロバ)といった、人と獣の戯画的対照まで見えるユーモラスな歌となります。
また、仲正には「きほひむまのつゝみに我をうちこめていたしもはてぬ世にこそありけれ」(競ひ馬の鼓に我をうちこめて至しも果てぬ世にこそありけれ)という諦観めいた歌もあり、『源仲正集』雑部に「述懐」を詞書として、あるいは『夫木和歌抄』巻第二十七・雑九の「馬」に「競馬」を詞書として収載されます。
「きほひむま」は「競ひ馬」(競い馬)で、いわゆる競馬(くらべうま)や駒競べ。
これは「うちこめて」に「(鼓を)打ち込める」と「(我が身を)内籠める」の意が掛かると読んで、己の境遇を嘆いた仲正が「競馬の馬たちは激しく駆けてゆくというのに、その鼓の内に我が身を押し込められたように、私はどこへも行き着くことのできないままだ。まことに、思うところへ至ることもなく終わる世であったことよ。」と詠んだと解釈すると、競い合う馬たちと進めない自分で、動と静、あるいは疾走と停滞の対比が優れた歌となるでしょう。
源仲正(仲政)の嫡男が、平家打倒のため、以仁王と挙兵したことで知られる源頼政です。
日本におけるロバの受容史を述べるため、少しばかり話が逸れました。
度月橋の詩に話を戻すと、「玉兎(ぎょくと)」は月の兎(うさぎ)や、あるいは月そのもの。
「三更(さんこう)」は夜を五等分した五更(更点法)のうち、第三の時刻。
南北朝時代末期~隋代の顔之推が残した家訓書『顔氏家訓』書證篇(書証篇)の描写を見るかぎり、三更と丙夜、三鼓は同義で、(不定時法による)深夜の子の刻と見なせます。
お分かりの方も多いでしょうが、十五夜の子の刻(0時前後)に月がどの位置(高さ)にあるか考えてみましょう。
轂(くるま)をおして轂(こしき)(車輪の中心部、ハブ)を回す手助けをする姿から、成語としての「推轂(すいこく)」は「推挙する」「推し立てる」の意で、それこそ『史記』の頃より使われる言い回し。
天は極点を轂(こしき)として回るとする中国の古い天文観(渾天説)がありますが、この詩は夜空の動きを轂とたとえています。
これらを踏まえて、「亀山十境」における度月橋の詩「度驢度馬未爲足 玉兎三更推轂過」を、表面的になぞって意訳すると、「うさぎうま(ロバ)や馬といった、地上の動物を渡すだけでは、この橋の役割として十分とはいえない。夜が更ければ、月の兎も轂をおして、この橋を渡っていくのだ。」といったところでしょうか。
ここでの「玉兎」と「推轂」は、月そのものや、夜空の動きを指すたとえですが、つまり、地上の動物を渡すだけではなく、満月の光が渡る(ように見える)橋だから度月橋だと。
ただし、この詩は夢窓疎石により七言体で作られた偈頌ですので、それは表面的な解釈にすぎず、本質的には仏教的な、とくに禅宗的な意味合いを含んでいると考えられます。
とくに、「度驢度馬未爲足」については、日本の禅に多大な影響を与えた仏教書『佛果圜悟禪師碧巖錄』(仏果圜悟禅師碧巌録)(碧巌録)の第五十二則「趙州石橋略彴」(趙州の石橋と略彴)の公案を典拠としているのでしょう。
それを踏まえると、また違った姿が見えてくるかもしれません。
興味深いことに、禅や老子といった東洋哲学の研究者、1880年(明治13年)生まれの井上秀天が、趙州石橋の解釈にあたり、渡月橋を引き合いに出しています。
『古今和歌六帖』第三帖の「川」に「照る月の桂の川しきよければ上下秋の紅葉をぞみる」の歌が収載され、「つきのかつら」(月の桂)と「かつらかは」(桂川)を掛けた歌も好まれました。
よみ人しらずながら、この歌が後世に与えた影響は大きい。
「月の桂」は「月中有桂樹」(月中に桂樹あり)とされた仙樹で、道術を学ぶ吳剛(呉剛)が過ちを犯し、玉皇大帝により月宮に送られ、再生する月桂樹を切り倒し続けるといった「呉剛伐桂」(呉剛伐木)の懲罰神話でよく知られます。
呉剛の伝説はバリエーションが多く、姮娥(嫦娥)の「嫦娥奔月」神話と合わせ、月にヒキガエル(蟾蠩)がいるといった伝説や、あるいは月にウサギ(兎)がいるといった伝説とも結びつきました。
かつて、京都の桂川は葛野川(かどのがわ)と呼ばれており、それが桂川(かつらがわ)に転じた由来は諸説ありますが、観月の地であったがゆえに、「月の桂」と重ねて見られるようになったのも確かです。
それこそ、本記事と関わりが深い亀山院にも、「河月浮舟」を題とした「秋風の月のかつらのうかひ舟くたすか浪のせせさわくなり」(秋風の月の桂の鵜飼舟くだすが浪の瀬瀬(せぜ)騒ぐなり)の歌があります。
「秋風の吹く月夜、月の桂の舟さながらの鵜飼舟が川を下ってゆく。そのためであろうか、波立つ瀬々がしきりに騒いでいる。」といった、「月の桂」「桂の舟」の伝説と、それに「桂川の鵜飼舟」を掛けた二重像の見立て表現ですね。
前半の幻想的な視覚の静かな表現から、後半の現実的な音の動きある表現に繋がります。
藤原定家が詠んだ「露をまつうの毛のいかにしをるらむ月のかつらの影をたのみて」の歌が『拾遺愚草上』に収載されます。
これは九条良経の邸宅で披講された「十題百首」(建久二年冬左大将家)における、定家による詠百首和歌のうち、「獣十首」の一首として詠まれた歌です。
『夫木和歌抄』巻第二十七・雑九の「兎」にも「十題百首」を詞書として収載されますが、寛文5年(1665年)版の『夫木和歌抄』では「つゆにふすうの毛のいかにしをるらん月のかつらの影をたのみて」とする異同があり、刊本によっては「うの毛の」を「うの毛も」とする異同があります。
「露が降りるのを待つ兎の毛は、どれほどしおれていることだろう。月にあるという桂、その影をただ頼みとして。」といった歌ですが、「月の兎」と「月の桂」から月の伝説に美しく寄せた、非常に技巧的なつくりです。
異文の「つゆにふす~」であれば、「露に濡れて伏す兎の毛は~」となり、より具体的な情景となります。
この歌はとても優れた歌なので、少しばかり解説しておきますと、「うの毛」は「兎毛」で、ここではウサギの毛でもあり、きわめて細く、弱く、露に濡れればしおれてしまいそうなものとしても造形されています。
「うの毛のいかにしをるらむ」は、兎を植物めかして描くことで、「露」「桂」と響かせており、異文の「つゆにふす」であれば、「毛」が露を含んでしっとり伏している視覚像もありますね。
歌における「桂の影」は月光を含意しますので、現実の兎は露に濡れながら、月の桂の影(=月光)を頼みとしている。
しかし、「月の兎」や「月の桂」という伝説を知る読者には、あたかも地上の兎が、本来、自分の属すべき月世界を仰いでいるようにも見える。
この虚実の重なりと、「頼みて」という情緒を残した結びが、この歌の妙でしょう。
「獣十首」で「兎」を題詠とするならば、野辺の景でも詠めばいいものを、あえて兎の毛ほどの小さなものから、兎といえば月、月といえば桂と、月世界まで広がるあたるが、さすが定家です。
本来、「度月」は「踰月(ゆげつ)」と同義で、月を越えることや、月が過ぎること。
後漢代の字典『説文解字』走部に「越 度也」、足部に「踰 越也」とあり、「踰」の漢字には「越」の字義が、「越」の漢字には「度」の字義があると伝わります。
また、『説文解字』辵部には「過 度也」とあり、「過」の漢字にも「度」の字義があります。
唐代中期の詩人、穆寂の五言排律「清風戒寒」に「過山嵐可掬 度月色宜看」(山を過ぐれば嵐掬(すく)うべく、月を度(わた)れば色看るに宜(よろ)し。)の対句があります。
「清風戒寒」の語は中国の史書『国語』周語中に見え、日本では菅原道真が「清風戒寒」を題する賦を作っています。
藤原顕季の「小倉山峰のあらしの吹くからに」の歌でも伝わるように、京都の「嵐山」は「山風(山おろし)が吹く山」とも解釈できますが、古く、中国で「嵐」は山に立ちこめる靄(もや)や霧であったり、いわゆる「山気」(嵐気)を表していました。
穆寂の詩句を意訳すると「山を越えると、澄んだ嵐気が掬い取れそうなほど近くに感じ、月の光を渡ると、照らされた色は美しくて見入ってしまう(ので、眺めるのに適している)。」といったところでしょうか。
「華実從茲始 何嗟歳序殫」(華実、茲(これ)より始まり、何ぞ歳序(さいじよ)の殫(つ)きるを嗟(なげ)かん。)と続きますので、自然の美しさだけではなく、そこに生命と歳月のサイクルも重ねています。
五山文学の禅僧は、唐宋詩を語の典拠とした漢詩文を数多く作っていますので、この詩にも影響を受けた可能性があると考えていますが、現代の日本ではあまり知られていない詩ゆえか、見落とされているのが惜しいです。
度月橋(渡月橋)の称が、述語が前に来る漢文的構造なのは明らかで、「くまなき月の渡るに似たり」「月の渡るに似たる橋」であれば、「月渡橋」の称となるでしょう。
これは他の記事で取り上げていますが、摩耶山の掬星台も、「星を掬(すく)う台」を由来としながら、「星掬台」ではなく「掬星台」を称するのは、漢詩の語を典拠とした漢風の表現だからです。
また、「天に通じる楼閣」通天閣は、幕末~明治期の儒学者・漢学者、藤沢南岳による命名とされます。
渡月橋から大堰川(桂川)の水面に写る橙色の満月と紫色の京都タワーを撮影する。
お月さまの高度が上がると紅から橙になり、時間帯的にも夜景の暗さに。
よく見ると、お月さまや京都タワーの光が大堰川の水面に映し出されています。
最初はゴーストによる映り込みかと思いましたが、カメラのファインダーから視線を外し、肉眼で川面を眺めても確認できました。
距離が遠すぎるため、明確な「逆さ京都タワー」とはなりませんが、これだけ離れていても「逆さ景観」が楽しめるのですね。
「照る月の桂の川しきよければ上下秋の紅葉をぞみる」ならぬ、「照る月の桂の川しきよければ上下初夏のタワーをぞみる」といったところでしょうか。
「月が渡る橋」から、不思議なお月さまと塔を観賞できて満足な夜でした。
京都タワーのライトアップがLED照明化されて以降、パープルのライトアップは確かに紫色に見えますが、ピンクのライトアップが桃色ではなく紫色のように見える、感じてしまいます(ただし、2016年(平成28年)3月2日に行われた試験点灯のピンクは確かにピンク色に見えました)。
これは私に限った話ではなく、ピンクだか紫だかよく分からなかったと感じる方が他にもいらっしゃるようです。
以前のマルチハロゲン灯によるライトアップの頃は、ピンクと紫は明らかに異なる色合いだと感じましたが、LEDだとなぜそのように感じるのか、理由がよく分かりません。
下の写真は渡月橋とは関係ありません。
クリンソウの花後。京都北山。
ベニバナヤマシャクヤクの見回りのため登った山ではクリンソウの見納めが近付いていました。
クリンソウやイワザクラなどサクラソウの仲間は濃いピンク色(桜色)のお花を咲かせますが、日陰で見ると紫色のように感じてしまいます。
上の写真に写るクリンソウの花弁の色も、(とくに日陰で撮影した写真では)ピンク色なんだか紫色なんだかよく分かりません。
また、クリンソウの花後は青紫に近い色となり、ますますピンク色から離れてしまいます。
京都タワーの新しいピンク色のライトアップも視覚的には似たような感覚なのかもしれません。
上の記事に日陰で撮影したコイワザクラの写真を掲載しています。
参考用に。
嵐山 渡月橋(地理院 標準地図)
「渡月橋(トゲツキョウ)(とげつきょう)」
京都市右京区(桂川の右岸は西京区)




















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