残雪の八王子山を登拝 日吉大社と申年の猿 大黒山 秀吉と光秀

2016年(平成28年)1月、年始早々の話。
今年は申年ということもあり、山王信仰で知られる日吉大社さんを元旦に参拝するか迷ったあげく、京都東山の新日吉神宮さんを参拝するに留めました。
干支にちなみ、日吉大社さんの「八王子山(はちおうじやま)」から初日の出を拝んだ方も多かったのではないでしょうか。

申年の日吉大社

実のところ、その後、私も1月のうちに日吉大社さんを訪れ、八王子山も登っていますが、その話は積み記事のまま放置していました。
その日は比叡山地側から見て琵琶湖の対岸、遠くに聳える鈴鹿山脈の高峰が雪雲の中に隠れており、どうにも写真映えしなかったから、というのも放置していた理由のひとつです。
ところが、他の山の話をするにあたり、その前提となる日吉大社さんや八王子山を訪れた日の話を軽くでも触れておく必要があることに気付きました。
何事に限らず、話や出来事は大きな流れの中で繋がっているものです。

申年の元日に京都東山・新日吉神宮を参拝 2016年1月1日

東山三十六峰 今熊野山と阿弥陀ヶ峰 新日吉神宮と申年の猿

2016.01.08

2016年(平成28年)の元日に新日吉神宮さんを参拝した話は上の記事に。

日吉大社と八王子山

比叡山坂本 日吉大社と八王子山 滋賀県大津市 2016年1月

比叡山坂本の日吉大社さんと八王子山(牛尾山)。滋賀県大津市。

比叡山の東麓、日吉大社さんが背負う裏山の八王子山と、その山頂近くには牛尾神社の社殿が写っています。
地理院地図では「八王子山」と山名が表示されますが、牛尾宮が鎮座する「牛尾山(うしおやま)」とも呼ばれています。
1926年(大正15年)の『洛北の名所古寺を探りて 叡山へ』によると、どうやら裏山の一帯を総称して「神蔵山(かまくらやま)」と呼んでいたらしい。

比叡山と八王子山、大黒山

当地における信仰は、そもそもは神奈備山たる八王子山に対する信仰から始まったと考えられています。
日枝山(比叡山)の大山咋神を山麓に遷したのが日吉大社さんとされ、京都東山の新日吉神宮(いまひえじんぐう)と同様、かつては日吉大社(昔の日吉神社)も「ひよし」ではなく「ひえ」とも呼んでいました。
その後、奈良の三輪山から大己貴神(大国主)が勧請され、現在の西本宮(大己貴神、大比叡)と東本宮(大山咋神、波母山小比叡)の基本的な形が成立したとされます。
享保19年(1733年)に大成した『近江國輿地志略』(近江国輿地志略)が引く『日吉傳記』(日吉伝記)に、山王権現は大三輪神と同体といった話が見えますが、(信じるかは別として、)大比叡宮を大三輪神とするのは『永承二年日吉社禰宜口傳抄』(日吉社祢宜口伝抄)によるもので、その他、現代に通じる設定はこれによるところも大きい。
比叡山に延暦寺が創建されて以降、天台宗との結びつきが強くなり、中国天台山と重ねた山王信仰の中心地たる総本宮としても栄え、京都の鬼門にあたることから、鬼門除けの神社としても知られるように。
このように、日吉大社さんには多くの信仰の形が入り混じっており、言い方はよくありませんが、雑多な光景をも美しいと感じる私にとっては興味深い神社さんです。

日吉大社さんと関わりが深いのは比叡山ですが、山麓から見上げるかぎり、直接的な「裏山」に見えるのは上の写真にも写る八王子山です。
また、日吉大社さんから見て西の「絶頂」にあたる標高点728m峰(奥比叡ドライブウェイ・峰道レストランの近く、あるいは黒谷青龍寺さんの上)、あるいは、その西0.15kmの小ピーク(標高点728m峰から京都一周トレイルのコースを挟んで西側ですが、地形図で見てもピークとは分かりにくい)は「大黒山」と呼ばれます。
大国主は大黒天と習合しており、日吉大社さんの「上」にあたる山を大黒山と呼ぶのも縁と言えますが、古くは黒谷を大黒天が現れた「大黒谷」と呼んでおり、こちらは黒谷に由来する山名だそうです。
このあたりの山域を大黒山と呼ぶことをご存じの方は少なく、何度か訪れて確認していますが、現地にも山名標のようなものは見当たりません。
伝教大師最澄が比叡山を登山していたら大黒天神が姿を現した、という話じたいは古くから見え、今も東塔の大黒堂で、豊臣秀吉ゆかりでもある三面出世大黒天が祀られています。

話を日吉大社さんに戻しましょう。

申年の干支絵馬

申年の猿 日吉山王大権現 日吉大社 干支絵馬 2016年1月

「申年の猿」日吉山王大権現(日吉大社さん)。干支絵馬。

山王信仰ではお猿さんを神の使いと見なしており、今年は「干支の年」にあたるため、そのことをアピールなさっていました。
私が元旦に新日吉神宮さんを参拝した理由でもあります。
江戸時代によく読まれた読本『絵本太閤記』に、面が猿に似ていたので豊臣秀吉は幼名を「日吉丸」とする由来が見えますが、つまり、「日吉」の語が猿を指す(と考えられていた)ことが分かりますね。

念のために申し上げておきますが、人気があった読本に秀吉の幼名が日吉丸だと書かれていて、それが世間で広まったというだけの話であって、その内容が歴史的事実というわけではありません。
より正確に述べておくと、『絵本太閤記』では「白日」と「凶を転じて吉となす」で「日吉」を前提として猿面の話に繋ぎますが、これは話が長くなるので、そのうち気が向いたら記事下部の余談にでも。

山王鳥居と猿部屋

残雪の日吉大社 山王鳥居 2016年1月

残雪の日吉大社さん。山王鳥居。

この鳥居の先、少し進んで右手に神猿さん(本物のお猿さん)がいます。
当初は神社さんに人が少なく、檻から表情が見えるくらいに寄ってきましたが、後から参拝者さんらが団体でいらっしゃったこともあり、奥に隠れてしまいました。

猿部屋

大宮本殿の左にあり。猿は當社の使者なりといふを以て、猿一匹づゝ此部屋に入置、參詣のもの食物を與ふ。

『近江國輿地志略』

この「お猿さん」は今に始まった話ではなく、『近江國輿地志略』の日吉大宮(日吉神社)の段には上のように記されており、昔からあった風習だと分かります。
当時は「大宮」で大己貴神を、「二宮」で小比叡大明神を祀っており、上の話に見える「大宮」は今でいうところの西本宮に相当します(大宮は「おおみわ」で大神に通じる)。
したがって、「二宮」は現在の東本宮、「三宮」は八王子山の三宮神社。
『近江國輿地志略』では「神蔵山」を「二宮の奥宮」としており、現代の日吉大社さんでは東本宮で大山咋神を、牛尾宮で大山咋神荒魂をお祀りなさっています。

鳥居の先の西本宮にお参りし、引き返して東本宮にお参りし、さらに折り返して八王子山の登山口へ。
ややこしい参拝径路を辿っていますが、自分なりの法則、順路のようなものがあります。

積雪する八王子山を登拝

八王子山登山口 日吉大社牛尾宮・三宮宮参道 2016年1月

八王子山の登山口。日吉大社さんの牛尾宮(八王子権現)と三宮宮の参道。

八王子山の山上にある摂社2座、牛尾神社と三宮神社の参道が、そのまま八王子山の登山道を兼ねています。
神仏分離以前は権現宮たる牛尾宮と三宮宮(三ノ宮)であり、境内の大きな案内板でも「牛尾宮」「三宮」としています。

坂本駅周辺からの参道は除雪されて無雪同然でしたが、日吉大社さんの境内や、八王子山の参道には雪が残っており、雪解けが進む山道では足元が汚れてしまいます。
山上の社殿に出る少し手前で八王子山の山頂や三石岳方面のコースと分岐します。
やや道が分かりにくいものの、この分岐点から八王子山や三石岳を経て横川中堂まで登山できますが、この道はピークハントを目的とするコースではなく、いずれの山頂も巻いて避けるのが一般的でしょうか。
さらに、横川中堂から峰道や東海自然歩道を経て、比叡山の北尾根に出ると、京都一周トレイルコースと合流します。
比叡山の北尾根や奥比叡はロングコースですが、交通の便が良く、エスケープが容易なのは安心できるでしょう。
横高山(釈迦ヶ岳)の玉体杉はハイカーの休憩所として、いつ訪れても賑わっています。
このコース(~西塔~玉体杉~横川~八王子山~日吉大社)は千日回峰行の行者道でもあります。

三宮神社・牛尾神社

八王子山(牛尾山) 日吉大社摂社三宮神社・牛尾神社 滋賀県大津市 2016年1月

八王子山(牛尾山)。日吉大社摂社三宮神社・牛尾神社。国重要文化財。滋賀県大津市。

写真では左が三宮神社で、右が牛尾神社。
懸崖造の社殿は国から重要文化財の指定を受けており、その前は琵琶湖を見渡せる好展望地となっています。
こんな寒い冬の日に登る物好きさんはいないだろうと考えていたら、後から若い男女1組がいらっしゃって驚きます。
ぬかるんだ足元に苦戦されているようで、近江の風景を軽く眺めた後、すぐに下山なさいました。

三宮神社と牛尾神社の間には「金大巌(こがねのおおいわ)」と呼ばれる巨岩が鎮座しています。
上でも軽く触れましたが、日吉大社さんや、当地の八王子権現から日本の各地に広まった信仰は、長い歴史の中で複雑な経緯をたどっており、金大巌や牛尾宮、三宮の扱いも立場や時代によって異なります。
八王子(八体の王子)のうち、三人の女神を分けてお祀りしたから「三宮」とする説は、『二十二社註式』が引く『扶桑明月集』(逸文)や、『嚴神抄』(厳神抄)といった書に見えます。

この岩場の下や、岩の上も見晴らしが良いですが、雪で滑りやすいので、この日は撮影を諦めました。
社殿前の展望所と視界は大差なく、無理に上るほどのことはありません。
金大巌や社殿は八王子山の山頂直下にあたり、一見すると登れないようにも見えますが、やや難路ながら、岩場の奥からも八王子山を登頂できます。

八王子山(牛尾山)の展望・眺望 大津市

近江富士と琵琶湖を望む

八王子山(牛尾山)の展望 琵琶湖、くさつ夢風車、近江富士を眺望 2016年1月

八王子山(牛尾山)の展望。琵琶湖、くさつ夢風車、近江富士を眺望する。日吉大社さん。

主な山距離標高山頂所在地備考
仙ヶ岳50.7km961m三重県亀山市
三重県鈴鹿市
滋賀県甲賀市
四方草山49.4km666.9m三重県亀山市
滋賀県甲賀市
三子山48.8km556m三重県亀山市
滋賀県甲賀市
鏡山
(西の竜王山)
20.1km384.4m滋賀県蒲生郡竜王町
滋賀県野洲市
三上山16.4km432m滋賀県野洲市近江富士

琵琶湖の対岸には烏丸半島の風力発電や、その後方に三上山・鏡山の丘陵地帯が見えていました。
三上山の遠方には綿向山、雨乞岳、イブネといった、鈴鹿山脈中核部の高峰が連なりますが、雲の中に隠れて見えそうにありません。
鈴鹿でも南部寄りの山は見えやすく、とくに「三つ子」の三子山の山容が分かりやすいでしょうか。
この三子山は私にとって馴染みがある大文字山や如意ヶ岳からは見えず、明確に望むには比叡山まで緯度を上げる必要があります。

撮影当時は雲が多くて見映えのしない写真だと考えていましたが、改めて眺めてみると、近江富士の姿が目立って見えますので、これはこれで悪くありません。
雲は多かったものの、冬場らしく空気そのものは澄んでいたようです。

視点を右へ。

湖南や信楽の山々を望む

八王子山(牛尾山)から湖南の阿星山、金勝アルプス、信楽の笹ヶ岳を遠望 2016年1月

八王子山(牛尾山)から湖南の阿星山、金勝アルプス、信楽の笹ヶ岳を遠望する。日吉大社さん。

主な山距離標高山頂所在地備考
高畑山46.7km772.9m滋賀県甲賀市
三重県亀山市
那須ヶ原山45.6km799.6m滋賀県甲賀市
(三重県亀山市)
阿星山21.8km692.9m滋賀県湖南市
滋賀県栗東市
竜王山19.3km604.5m滋賀県栗東市金勝アルプス
四百山23.5km568m滋賀県甲賀市
滋賀県大津市
大鳥居の南
笹ヶ岳33.0km738.4m滋賀県甲賀市

手前側の平地は雪が見えませんが、琵琶湖の対岸は少し雪が残っていますね。
分かりにくいですが、上空にはヘリコプターの編隊が写っており、4機編成を見るかぎりでは自衛隊さんでしょうか。

雲が失せないか眺めていましたが、粘っても好転しそうになく、このあたりで諦めて下山しました。
何気なく歩いていると見落としますが、参道の途中で尾根に乗るコースがあり、距離は短いものの、そちらも見晴らしの良い道のりです。
社殿の前から見えにくい湖北や琵琶湖大橋、あるいは大津の南も見えますが、この日の湖北方面は霞んでおり、伊吹山や金糞岳は見えないも同然でした。

八王子山を下山

日吉大社 雪だるま 平成28年は申年です 2016年1月

日吉大社さんで雪だるま。平成28年は申年です。

この後、近江神宮さんにも参拝し、何気なく楼門の写真を撮影しておきました。
6月に近江神宮さんに再訪したら、ちょうど、楼門の屋根の葺替え工事のため、足場が組まれているところで、これも偶然、先代の屋根の姿を写真に残せて良かったです。

皇子山古墳から伊吹山、琵琶湖の奥島(津田山)を遠望 大津市 2016年6月

皇子山古墳から琵琶湖を展望 山中越~近江神宮 兵営前駅

2016.10.21

1月と6月の近江神宮さんの話は上の記事に。

いずれ、鈴鹿や湖北が見えやすい日にも八王子山を訪れたいものです。
だいたいの場合において、私が何かをしたり、何かを書くと、それがフラグとなる傾向にありますので(笑

追記。
2016年(平成28年)の年末、「鈴鹿や湖北が見えやすい日」に八王子山を再訪しました。

日吉大社 酉年の干支絵馬 2016年から2017年へ 滋賀県大津市

八王子山 木曽御嶽山と琵琶湖を撮影 日吉大社 滋賀県大津市

2016.12.27

計算上、八王子山から見える最遠の山まで撮影できた、はずです。
私が話の種にするとこうなるという、いつものお約束ですね。
その話は上の記事に。

余談・追記

大黒谷と大黒林

大黒山の件で追記しておきます。

森林

國有林

八町林

叡山の西に有り段別六十町六段七畝一歩延曆寺の上地なり

大黒林

同上段別十一町一段八畝十五歩延曆寺の上地なり
此國有林は叡山の西面本村の東方に在りて古來本村の永代請所と稱し中代より年々米一石四斗銀五百四匁三分五厘を延曆寺に納め來りしが寺領上地の後京都府の所轄となり年々米一石四斗金八圓四拾錢五厘を府廳に納め舊來の慣例を繼續せしが明治九年七月返納せしめられたり(四十二年八月延曆寺有となる)

『京都府愛宕郡村志』

京都府側の記録を見てみると、1911年(明治44年)の『京都府愛宕郡村志』における「八瀬村志」で、八瀬村の森林として「八町林」「大黒林」の名前を挙げています。
八町林は八丁谷の山林、大黒林は黒谷の山林で、黒谷を指す「大黒」の用例が定着していたことが分かります。
「府廳」は府庁、「上地」「寺領上地」は1871年(明治4年)と1875年(明治8年)の「上知令」(社寺領上知令)(社寺上知令)で官有地(国有林)となった寺社の上地林を指しています。

大黒天と豊臣秀吉、明智光秀

これは完全に余談です。
時間が取れたら(気が向いたら)書きます。

名将言行録と武者物語

明智光秀
(前略)
或時越前ノ東江川ヲ渡リシ時、大黑ヲ拾フ、是ハ福神也迚(とて)大ニ喜ヒ家ニ歸リ、棚ノ上ニ置テ朝夕之ヲ敬拜セリ、或人聞テ偖(さて)モ目出度福神ヲ迎ラレシ者哉此福神ハ則チ千人ノ司也能々(よくよく)信心セラレヨト云、光秀聞テ大ニ驚キ、偖ハ此大黑殿ハ千人ノ司ナルヤ、假令(たとひ)福神也共、尋常ノ凡夫ニモ千人ノ司スル人多シ、侍ノ出世ヲ願テ頼ムベキ神ニ非スト云テ、取棄テタリ、
(後略)
『名將言行錄』巻之十八

浪人時代の明智光秀が、越前の東江川を渡っていた時のこと。
大黒天の像を拾った光秀は、「これは福の神だ」と大喜びし、家へ持ち帰って棚の上に祀り、朝夕欠かさず拝んでいた。
その話を聞いたある人が、「それはなんとも縁起のよい福の神を拾われましたな。大黒天は『千人の司』ともいわれる神です。どうぞ大切に信仰なさってください」と言った。
すると光秀は驚いて、「なんと、この大黒殿は千人の司にすぎないのか。世の中には、ごく普通の人間でも千人ほどを従えている者はいくらでもいる。たとえ福の神であっても、武士として出世を願う自分が頼るほどの神ではない」と言い、その大黒天像を捨ててしまった。

ここでいう「千人の司」とは、大黒天が千人を養う福徳の神とされたことに由来する表現ですね。
光秀はそれを、わずか千人ほどの人間を従える程度の存在と、あえて俗世的な尺度に置き換えて受け取り、「それほどの出世では満足できない」と大黒天を捨てた、という逸話です。
『嘉祥寺神愷記』の「大黒天神法」に「若吾安置伽藍、日々敬供者、吾寺中令住衆多僧、毎日必養千人之衆、」とあり、寺院に大黒天神を祀ると千人の衆徒が集まる、一日千人扶持する(1日に千人分の食料を準備して養える)、などと言われて信仰を集めていました。
ただし、唐代に成立した『嘉祥寺神愷記』が日本に伝わったとする説は大正時代には否定されており(日本の仏教書に多い、和化された仏教漢文の体に見える)、「大黒天神法」じたいは平安時代末期以前の日本で創作されたと考えられています。
それらしく書かれてはいるものの、いずれも日本語の文法や表現に引っ張られており、正しい漢文の体(正格漢文)ではありません。

岡谷繁実が撰述した『名將言行錄』(名将言行録)は江戸時代末期~明治初頭に成立した逸話集。
江戸時代に知られていた軍記物や逸話集、巷説集などを収集したもので、歴史的な事実を正しく伝えているかは疑わしいものの、明治時代以降の歴史小説の元ネタとして流用されました。
『名將言行錄』では明示していませんが、上の話に限れば、江戸時代前期の明暦2年(1656年)に刊行された『武者物語』を種本として引用したものでしょう。
『武者物語』では「越前國東江川」に「東江川(とうこがわ)」と振り仮名を振っていますが、この「とうこがわ」がどの河川を指すか分かりません。

山鹿語類

志氣
(前略)
師曰、惟任光秀若かりける時、芥川にて大黑をひろいけり、時の人皆云ふ、大黑をひろへば千人の頭となる也と云る沙汰を、或人の云ければ、早々大黑を棄させける、志氣尤大也と云べし、此志氣を以て信を重んじ道の道たる所をつとめば、何ほどの忠義をも盡(つく)しつべし、此志氣を暴逆の方へ趣かしめば、又惡として不レ到と云ことなかるべし、光秀ついに信長を奉レ弑事こゝに於て旣に發す、古の武士は王位をも奪はんと志をなせり
(後略)
『山鹿語類』巻第二十三 士談二

やはり江戸時代前期に成立した、山鹿素行による講義を門人が収録した『山鹿語類』に収載される話も類型でしょう。
山鹿素行は当時の主流となっていた朱子学から外れ、独自の聖学を立てた儒学者・軍学者。
ここでは大きな志そのものを否定せず、その志が正しい道へ向かうか、暴逆へ向かうかを問題としています。

そういわれても、やや分かりにくいでしょうから、これも雑に解説しておきましょう。
『山鹿語類』は山鹿素行の門人が聴講した内容を聞き書きした体ですので、「師曰」は「(師の)山鹿素行いわく」です。
山鹿素行によれば、若い頃の明智光秀が芥川で大黒天を拾ったところ、ある人から「大黒を拾えば千人の頭になれる」と聞かされました。
すると光秀は、その程度の出世では満足できないとばかりに、すぐに大黒天を捨ててしまったといいます。
素行は、この行動に光秀の並外れて大きな「志」を見ていますが、その大志を無条件に褒めているわけではありません。
これほど大きな志を、信義を重んじ正しい道を行うことに向けたなら、どれほど大きな忠義でも成し遂げられただろう。
しかし、その志を暴虐や反逆の方向へ向ければ、どこまでも悪へ進んでしまう。
光秀がのちに信長を討ったことも、すでにこの若い頃の大志のうちに、その萌芽があったのだと、素行はそのように評しています。
光秀の野心そのものを悪とするのではなく、大きな志は、その向かう方向によって忠義にも反逆にもなり得る、と見るところに、山鹿素行らしい考え方がよく表れているように思います。

光秀が大黒天を拾ったという「芥川」は、現在の大阪府高槻市を流れる芥川のことと考えられます。
ポンポン山方面を歩くハイカーさんにはおなじみの川でしょう。
芥川は地勢的にもきわめて重要な地であり、それゆえに三好家が拠点としましたが、天下との関わりが見出されたのでしょうか。

武将感状記と語伝集

秀吉大黑天を尊ばざる事
(前略)
京都に攻上らるゝに、川を渉る時水上より木佛流れ來る。馬副(うまぞひ)是を取上ぐるを、秀吉何佛ぞと問はるゝに大黑と答ふ。秀吉其の大黑を取つて、鞍の前輪(まへわ)におし當(あ)て、短刀を抜いてニツに切割りて、大黑は只千人を育む佛なりと聞けば、門出惡しゝと云ひて捨てられたり。此の時より、天下を望むの大志ありと見えたり。

『武將感狀記 近代正説碎玉話』巻之六

羽柴秀吉にも明智光秀とよく似た大黒天の逸話が伝わります。
他の書にも類型が見られ、また、秀吉と大黒天には別型の逸話もありますが、光秀話と比較するため、今回は『武將感狀記』を取り上げましょう。
「秀吉と大黒天の別型の逸話」は、別の機会を設けて紹介できれば。

これは「本能寺の変」の直後、いわゆる中国大返し途上でのエピソード。
秀吉が京都へ向かって進軍していた時、川の上流から木彫りの仏像が流れてきました。
供の者が拾い上げたので、秀吉が「何の仏だ」と尋ねると、「大黒天です」と答えます。
すると秀吉はその大黒天を受け取り、鞍の前輪に押し当てて短刀で二つに割り、「大黒天は、わずか千人を養う仏だと聞いている。これでは門出が悪い」と言って捨ててしまった、とされています。
この行動を見て、『武将感状記』は「この時すでに天下を望む大志があったことが分かる」と評しています。

明智光秀の逸話では、「千人の頭になれる」と聞いた光秀が大黒天を捨てました。
秀吉の逸話でも、「千人を養う」程度の福徳では天下を望む者には足りない、という同じ発想が使われています。
もちろん、これを秀吉の実際の行動として、そのまま受け取ることはできません。
むしろ、天下人となった秀吉の若い頃を振り返り、「もともと千人程度では満足しないほどの大志を持っていた人物だった」と説明するために作られた逸話と見るほうが自然でしょう。
江戸時代のこうした逸話では、「千人」は大黒天の福徳を表す数字であると同時に、天下を望む人物にとっては小さすぎる規模として扱われています。
後世、秀吉は比叡山東塔の三面大黒天(三面六臂大黒天)を信仰したとも伝えられているため、この逸話との取り合わせはなかなか皮肉です。
大黒天は「一面千人」とされ、三面大黒天であれば、1日に三千人を養える加護があるとされました(ただし、残りの二面は毘沙門天、弁財天)。
京都へ入る前の川という点では、『山鹿語類』の光秀話と同様、芥川を連想させますが、本文には河川名がなく、特定はできません。

日本における「韓信の股くぐり」の変形として、「京の者は一遍は耻(恥)を忍んでも後には千人の司を取る」という俗諺が知られていたように、「千人の司」は十分に成功の象徴だったわけです。
それなのに、光秀も秀吉も「千人では足りぬ」と大黒天を捨てた人物として語られ、その二人が(芥川も近い)山崎で天下を争う。
大黒天が保証する「千人」という規模を超えて、天下そのものを望む者たちが、同じ京への道で天下を賭けてぶつかる。
史実として扱うべきではないにせよ、江戸時代の人々が作り上げた武将像には、どこか出来すぎた面白さがありますね。

熊沢淡庵が撰述した『武將感狀記』(武将感状記)は、江戸時代中期の正徳6年(1716年)に刊行された逸話集。
題簽の角書(副題)と内題は「近代正説碎玉話」(近代正説砕玉話)、序には「碎玉話」(砕玉話)とあります。
『名將言行錄』と同様、史料的な価値は低いと見られていますが、後世における戦国武将の話に大きな影響を与えました。
上の話に限れば、成立年代不詳の『語傳集』(語伝集)(武家物語)にも収載されますが、どちらが先に成立したかは分かりかねます。
散逸した書も含め、江戸時代に編纂された逸話集や軍記風の物語は数多く、だからこそ、それらを選出した『名將言行錄』のような書は重宝されました。

八王子山(牛尾山)(地理院 標準地図)

クリック(タップ)で「八王子山(牛尾山)」周辺の地図を表示

「八王子山(ハチオウジヤマ)(はちおうじやま)」
別称として「牛尾山(ウシオヤマ)(うしおやま)」
標高381m
滋賀県大津市

お知らせ
本記事における三角点の標高値は、国土地理院により2025年(令和7年)4月1日に実施された「令和7年度 全国の標高成果の改定」(「測地成果2024」に改定)に対応しています。

ABOUTこの記事をかいた人

Maro@きょうのまなざし

京都市出身、京都市在住。山で寝転がりながら本を読むか妄想に耽る日々。風景、遠望、夕日、夜景などの写真を交えつつ、大文字山など近畿周辺(関西周辺)の山からの山岳展望・山座同定の話、ハイキングや夜間登山の話、山野草や花、野鳥の話、京都の桜や桃の話、歴史や文化、地理や地図、地誌や郷土史、神社仏閣の話などを語っています。リンク自由。山行記録はごく一部だけ公開!